17



 最初は、何が起きたのか理解できなかった。
 何かに躓いたというのならわかる。だが、足首を掴まれるなんてことが、果たしてあるだろうか。


 まさか。


「…………!」

 ぐいっ、と掴まれた右足首が引っ張られ、バランスを崩されてあたしは床に叩きつけられた。左肩を硬いタイルに打
ち付けて、激痛が体を巡る。直後、何者かに馬乗りされた。重たい感触が、全身に悲鳴をあげさせた。
何者かだなんて、そんなの決まっているじゃないか。

「このヤロウ……どいつもこいつも、俺をコケにしやがってぇぇっ!」

頭上で喚いているのは、紛れもなく生きた佐野だった。
何故だ! どうしてこいつは生きている?! あんなに弾をぶち込んでやったのに、全身を撃った筈なのに! あぁ、
そうか。こいつは悪魔だから、頭をぶち抜かないと死なないんだ。でもどうする? もう弾はないじゃないか。予備の弾
は、まだ二階の休憩所にバックごと置きっぱなしじゃないか。なんたる失態!
佐野は血だらけの全身をものともせず、あたしを仰向けに転がすと、その両手で首を絞めようとしてきた。そんなごつ
い手で絞められたら間違いなく殺される。あたしは全身から血の気が引くのがわかった。
死んで、たまるか。あたしは迫り来る両手を受け止めようとするが、銃を握ったままの右腕ごと佐野の膝の下敷きに
なっていて、動かすことさえできなかった。結局左手だけでは両手を払うことしかできず、程なくして佐野の両手は定
位置に納まった。物凄い握力だ。
あたしは全身をふるわせる。息を殺して、少しでも体への負担を少なくする。先程佐野を撃った箇所、右腕の傷口に
左手で爪を立てる。たまらず佐野は力を緩めた。少しだけ息が軽くなる。
そういえば腿も撃ち抜いたっけ。あたしは膝でその部分を思い切り蹴り上げた。佐野が悲鳴をあげて腿を暴れさせ
る。同時に、拘束されていた右腕が解放された。
あたしはグロッグを思い切り振り被って、佐野の顔面を殴った。ゴキ、という鈍い音がして、佐野が仰け反る。あたし
は一気に全身に力を込めると、そのまま佐野を突き飛ばした。後方の壁に全身を打ち付けて、佐野はさらに悲鳴をあ
げる。ギャーギャーうるさい奴だ。
立ち上がると、一瞬だけ目眩がした。一時的に首を絞められて、失神しそうになったからかもしれない。もしあと少し
だけ絞められた時間が長かったら、本当に今頃あの世逝きだったのかもしれない。そう考えると、ぞっとする。
ふらふらとしながらも、あたしはトイレから脱出した。階段と休憩所は逆方向だ。そして背後からは怒鳴り声がさらに
響いてくる。

 もう、迷っている暇はない。

あたしは迷わずに階段を選択した。崩れ落ちそうになる足をなんとか支えながら、一気に下まで駆け下りる。そして、
菅井や城間がそうしたように、入口へと向かった。二階から、ダンダンと足音が響いてくる。追いかけてきているに違
いない。早く逃げないと。あたしは一気に入口脇の非常扉を開けて、外へと出た。

 外には相変わらず冷たい風が吹きぬけていたが、既に雪はやんでいた。うっすらと地面に積もっている雪の上を、
あたしはとにかく走り続けた。もういったいここがどこなのかわからない。だけど最早どうでもよかった。とにかく一刻も
早く、あの忌々しき場所から遠く、少しでも遠くへと行きたかった。
とっくに限界を迎えている体に鞭打って、あたしはひたすら足を動かした。背後から鳴り響いてくる筈の怒号はもう聞
こえない。だけど、それでも何かから逃れるように、あたしは走り続けた。

 いったい、あたしはなにから逃げているんだろう。
 麻薬に狂わされた悪魔? それとも……発狂して死んだ兄?

とにかく、常に背後から迫ってくる恐怖から逃げ出したかった。
もう、粛清だとか復讐だとか、そんなものはどうでもいい。とにかくあたしは、生きたかった。
殺されかけて、はじめてわかったのだ。あたしは、ただ死にたくなかっただけなのだと。なんであたしは勝手に殺害リ
ストを作っていたのだろう。そうやって、殺されて当然の人間を殺すことで、少しでも自我を保とうとしていただけなんじ
ゃないのか。本当は違う。あたしは死にたくなくて、だから生き残りたくて、だから殺害リストを作って、勝手に殺して
いただけなんだ。
もうどうだっていい。あたしは、生きたい。

 急に、涙が流れてきた。
 涙は頬を伝い、そして地面に落ちて冷たくなる。

あたしはもう走る気力もなくなって、地面に崩れ落ちた。くたくたになった全身が、悲鳴をあげている。
冷たい地面は、興奮して火照っているあたしを冷たすぎるほどに冷やしてくれた。スカートから露出した生足が雪に触
れても、最早なにも感じない。感覚が麻痺しているのかもしれない。

 いったい、どこで狂ってしまったのだろう。
 どうしてあたし達は、こんなところで殺し合いなんかしているのだろう。

もっともっと、あたし達は生きたい筈だ。こんなたった十五年で、生涯を終えたくない筈だ。
全国で呑気にイブを過ごしている中学三年生が恨めしかった。現在生きている国中の中学三年生の中で、たった二
十四人だけが、こうして殺し合いを強要されている。なんて不公平なんだ。どうしてあたし達が選ばれてしまったん
だ。いったい、どうして。
いじめだとかそんなことで自殺している奴が恨めしかった。まだまだ生きることができるのに、レールは用意されてい
るのに、自ら命を絶つなんてことが信じられなかった。あたし達には、そのレールさえ存在しないのだ。存在するの
は、たったひとつ。生存という名のレールだ。
他人を蹴落としてまでいきたいと思っているのに、どうして自殺なんてできようか。生きたいと思っているのに生きるこ
とが許されない奴らもいるということに、気付いていないのだろうか。
全てが憎い。自殺する奴、その命をあたしにくれ。できないなら自殺なんかすんな、ちくしょうめ。

「うっ……うっ……」

あたしは泣いた。寒い風が吹きぬける中で、ただひたすら泣いた。
どうしてあたしはこんなに沢山の命を奪ってしまったんだろう。どうすれば、あたしは元に戻れるのだろう。


 いったい、どうすれば。


「えっと……杏奈?」

そこにかけられたのは、まるで全てを包み込むかのような優しい声だった。
忘れもしない。いや、忘れる筈がない。そう、その親友の声を。

「……杏奈だよね?」

「ナオ……ナオ!」

あたしは、泣きじゃくりながら、親友―― 霜月直子(女子四番)に抱きついた。
なにもかも忘れて、まるで赤子のように。あたしは、直子の胸で泣き続けた。

「ちょ……杏奈! なにやってんの! や、やめてよ!」

「ナオ……ナオ、ゴメンね。でも……しばらく、これでいかせて」

「杏奈……あんた、いったい……」


 それは、本当に奇跡だったのかもしれない。
 それを奇跡と呼ばずして、果たしてなんと呼ぼうか。


 一日目、午前五時二分。
 あたしは図書館裏の林道で、偶然にも親友と、遭遇した。

 そう、この奇跡がなければ。

 もう……あたしはあたしでいられないまま、だったのかもしれない。



 【残り15人】





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