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 春。

 四月に差し掛かって、ようやく暖かいな、と感じるようになってきた。
近所の大きな公園に植えられた桜は、まだ寒さの影響が出ているのか満開とまではいかなかったけれども、半分く
らいは咲いている。今週末には、きっと満開になっていることだろう。
休日ということもあり、昼間からレジャーシートをひいたせっかちな人達が、あるいは休日返上で会社ぐるみで花見に
来ているのか、やんややんやと酒を飲んで騒いでいる。彼らにとって、花の量は関係ないのだろう。酒が飲めて、楽
しければいいのだろう。

「……だいぶ、暖かくなりましたね」

私は、ベンチに腰掛けた。横を歩いていた文枝が、そっと隣に座る。他のベンチにも、若いカップルが座っていちゃつ
いていたり、家族連れが座ってお弁当を食べていたりと、公園はそれなりに賑わっていた。

「そうだな。もう、春だ」

そう、季節はもう春だ。
風が舞う。まだ五分咲きながらも、花びらがひらひらと風に舞っていた。一枚がこちらの方へと流れてきて、文枝のス
カートの上に着地した。それを、文枝がひょいとつまむ。

「まだ……花見には早いわよねぇ」

「少しな」

二人で笑い合う。そう、二人だけの時間。二人だけの、ひと時。
栄一郎が生まれてからは、ただただ子育てだけを考えていて、こんな時間を持ったことがなかった。だが、栄一郎が
この世から消えてしまった瞬間。ある意味で、私たちの時は終わりを告げたのかもしれない。
まだ私は齢五十だ。これからも、政府に属して色々と働き続けるのだろう。きっと、若者を育て、鍛え、次々と送り出し
ていく身になるのだろう。そんな中の、ひと時。

「でも……休みなのは久々だもの。行けるときに行っておかないと」

「あぁ」

私は、ぼんやりと晴れ渡る空を見上げながら、そう相槌を打った。


 ここ半月の間、私は終日働きづめだった。所属していた部門の仕事が、大忙しだった影響もある。そう、例の事件の
関連だった。事態は、思いがけない方向へと走っていたのだった。
加藤兵吾の自宅が火事に遭い、麻薬の元締めと考えられていた重要参考人が死亡したあの事件は、その後の警察
の調べによりやはり放火であることが判明した。加藤の部屋をくまなく調べたところ、普通部屋には置いてないような
ものが見つかり、それがきっかけでようやく殺人にまで漕ぎ着けたらしい。もともと、こちらの部署で色々と予備調査
はしていたので、大体の目星はついていたのだが、それがようやく確信に替わった。
政府が捜査している麻薬事件だ、力が入らないはずがない。疑惑の目が向けられていた暴力団にはあっという間に
メスが入り、案の定隠し切れなかった証拠が多々出てきた。どうやらこの事務所、繁華街で適当に目をつけた中高生
にバイヤーになるように仕向け、そして徐々に学校に麻薬を浸透させて荒稼ぎをしていたらしい。当初、何処から新
薬が洩れたのかが疑問だったが、それに関しては接点を見つけることは出来なかった。手荒な真似もしたと裏では
言われているが、それでも無理だったらしい。
そんな筈はない。糸を手繰ればいつかは黒幕にだってぶつかるだろう。だが、糸はそこでぷつんと切られてしまって
いるのだ。暴力団の連絡先は全て存在を抹消されていて、要するに関係を断たれたというわけだ。ここまで暗躍して
いた事務所も、黒幕にとっては所詮は捨て駒だったに違いない。また、誰が加藤の家に火をつけたか、それもまだわ
かってはいないようだった。どう調べても、事務所の者がやったという確証は得られなかったのだ。もしかしたら、黒幕
側が口封じに彼を殺害したのか、あるいはそもそも彼の死は麻薬とは関係がなかったのか。
そうなってしまうと、完全に怨恨の線ということで警察頼みになってしまう。黒幕まで辿り着けなかったとはいえ、諸悪
の末端を潰すことには成功したのだ。これがきっかけで、他の場所でも麻薬が流通しなくなればまだいいのだが。満
足の行く結果ではあったが、なんとも後味が悪い。
私は連日、その仕事の書類作成で大忙しだった。やれ会議だ、やれ報告書作成だ、やれ情報収集整理だ、色々と
雑務をこなしていく中で、ようやく落ち着き始めた頃、やっとのことで手に入れた、休日。


「……大丈夫? なんかぼーっとしてるわよ」

「ん? あ、あぁ……平気だ。連日の疲れが、どうも溜まってしまったみたいでね」

「肩に力を入れすぎなんですよ。もう少しこう、リラックスして仕事にも取り掛からないと。もう、若くないんですから」

「それを言われちゃなぁ……いやー、参った。昔なら徹夜もへっちゃらだったんだけどねぇ」


 昨日、珍しく定時で仕事が終わったと思ったら、また大先輩である的場から飲みの誘いが来た。豪徳が、息子が熱
を出したとかで帰宅しなければならなかったらしく、一人で飲むのはつまらないからと、その相手を頼んできたのだっ
た。私はいそいそと高架下のいつもの飲み屋まで足をのばした。

「お前ンとこ、色々と大活躍らしいじゃないかい」

「いえ……でもまぁ、あのプログラムの前後で事態は一気に進みましたしね」

お通しを口に運びながら、私はビールをちびちびと飲む。
どうやら、私たちの部署の話題は、結構政府内では有名になっているらしかった。

「いやー、まぁあのプログラムもひどいものじゃったな。こっちもこっちで後処理が大変だったんじゃぞ。あの転校生が
 優勝したもんじゃから、次も参加するんじゃろ? 豪徳の奴、あわあわしておったわい」

「確かに、連続で参加するとなると、結構行き当たりばったりってイメージがありますからね」

「しかしまぁ……あの転校生は、ホンモノじゃよ。この間の五十号にも、なんともまぁ颯爽と出場していたみたいでの」

「五十号……て、まさか最後まで勝ち続けたんですか?!」

私は、自然と声が大きくなってしまっていることに気付き、少しだけ口を塞いだ。
危ない危ない。曲がりなりにもこれは、一応機密事項であることには変わりないのだから。気をつけなければ。

「すみません。でも……そうなんですか。あの青年が」

「あぁ。しかしまぁ、やりおったぞあいつ。なんとな……」

「……いや、いいです。結果なんて、私には関係ありませんから」

饒舌になりかけた的場の口を、私は遮った。
結果なんて、どうでもいい。それは私には、必要のない情報だからだ。
私には、死んだ栄一郎しか、興味はなかったのだから。

「……そうか。まぁ、それもよかろうて」

的場は残念そうな顔をして、同じようにちびちびと酒を飲んでいた。
結局、この話は以後、私が耳にすることはないのだった。


「次の日が休日だからって油断してると、大変ですよ」

「大丈夫だよ。二日酔いじゃないし」

「そうじゃなくて。睡眠時間、足りてないでしょう。帰ってくるのも遅かったですし。ほら、疲れているんですから」

「……あぁ」

 私は、笑った。文枝も、笑った。
 ふと、寂しくなる。一緒に笑っていた筈の栄一郎は、ここにはいないのだと、そう思うだけで。

「ぽっくりなんて、逝ったら駄目ですよ。もう、あなたしかいないんですからね」

「大丈夫だよ。まだまだ現役、最後まで頑張るさ」

「もう……わかっているのかわかっていないのか……」

「あぁ」

 私は再び曖昧な返事をして、空を見上げた。
 また、風が吹いて、ちらほらと桜の花びらが、舞っていた。

 両手を、うんと上に伸ばしてみる。
 そうすれば、風に舞う花びらが、掴めそうな気がして。


 ……もしも天国があるのだとしたら。
 栄一郎もまた、この桜を見ているのだろうか。

 向こうで、一緒に笑っているのだろうか。


「栄一郎……」


 返事は、もう来ない。



 【 完 】




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