147


「えーと……唐津君。塾帰り?」

 粕谷という少年は、歩く方向が一緒らしく、ぴったり俺の横につけていた。
 丁度、テリトリーを侵害しない絶妙な距離。こちらから近付くことも、遠ざかることも許されない、そんな雰囲気。

「……そうだが」

「へぇ、凄いな。頭良さそうだな」

 最初の印象は、どこにでもいそうな、普通の活発な育ち盛りの少年という感じだった。
確かに中学一年から塾に通うなんて事は特異なのかもしれない。だが、このベビーブーム世代、少しでも上に上り詰
めるには、この学歴社会という制度に流されるしかないのだ。

「あのさ、さっきのことなんだけどさ……」

さっきのこと。つまり、あの騒動だ。いや、正確に言えば騒動になりかけた、か。
答えるのも面倒だ。俺は適当に、首を振って続きを促した。

「知らないんだったら知ってた方がいいよ。あいつら、一応うちの学校の先輩なんだ」

「……知り合いか」

「あぁー、いやいやいや! 違う違う!! そんなんじゃないよー……えとね。こないださ、隣のクラスの男子が階段
 の踊り場でボコボコにやられてたんだよ。駒川って奴なんだけど」

 駒川。

 その名前を聞いた瞬間、心の中は憎悪で満ち溢れていた。
 その彼こそが今、唐津洋介に関する出鱈目の噂を流した張本人だったからだ。

 本名、駒川大地。小学六年の時は同じクラスだった。いつも隅で静かに読書をしているような印象だったが、実際
は違う。お喋りだ。なにか思ったことはすぐに口出す性格で、それが同年代の小学生にとっては面白おかしかったの
だろう。からかうと同時に、恰好のいじられキャラになっていた。だが、本人はそれを自身のせいだと思っていなかっ
たし、だからその性格を改善しようとも思っていなかった。
そして、あいつはそのいじめから逃れようとして、同じく無視されている俺に関する噂を、どんどん吹聴していった。も
ともと俺もあまり人とは関わりがなかったから、それを止める手段もなく、いつのまにか俺は両親や塾の講師を鉄パイ
プで殴ったことになっている。やがて噂は暴走し、エスカレートして留まるところを知らず、中学になる頃には、全く別
の人間像が確立してしまっていた。唐津洋介なのに、唐津洋介でない存在。
やっと中学になって、周りの環境が変わって、平穏が訪れると思ったのに。再びあの男が、それを始めた。俺の姿を
見た瞬間に、近くに居た生徒にそのことをぶちまけたのだ。その後、俺は駒川を呼びつけたが、遂にあいつは現れな
かった。まぁ、そのせいで変な噂に拍車がかかったのもまた事実だが。
しかしまぁ、それでも一応中学生だ。すぐに駒川自身の噂も広がると、急におれ自身の噂の信憑性も薄まっていき、
今ではまだましな状態にはなっている。少なくとも、俺の存在を中学で初めて知った奴は、そんな噂、端から信じちゃ
いなかったのだが。

「……そうか。駒川か」

「知ってんの?」

「あーいや、なんでもない。気にすんな」

そうだ。気にするな、あんな雑魚。あんな奴、またすぐにいじめの対象にされるだけだ。俺はそうはさせない。一応中
学生だから、それなりの分別はつくだろう。俺は、最低限の付き合いを続けるだけでいいんだ。

「敵わないよ、あいつらには。凄いキレる奴がいてさ、常に最善策を選んでる」

「……だろうな。あの状況で喧嘩やってたら、ただの馬鹿だ」

「僕とか何も出来なくて、ただ黙って逃げるしか出来なかったんだから。凄いよ唐津君は。あいつらに立ち向かってい
 けんだから。……ひょっとして、ケンカ強いの?」

俺は考えた。自身の強さなんか、あまり考えたことがなかった。もともとそういった争いごとをしたこと自体なかったか
ら、全くわからない。運動神経は良い方だと信じている。だが、もっともっと上がいるということを、この数日間で学ん
だ。上には上がいるものだ。あまり、変な事は言わない方がいいだろう。

「いや……実際に殴り合うとか、そういうことはしたことないな」

「ふーん、そっか。でも、度胸はあるんだろね」

「それはお前もそうだろ。あれだけの大衆の前で、俺に声を掛けるとは大した度胸だ」

「えへへー……。まぁね。ケンカ、嫌いじゃないから」

目の前でにぱー、と無邪気に笑う粕谷の顔は、可愛らしかった。無垢な笑顔。俺とは違い、本当に毎日を楽しんで生
きているかのような、そんな雰囲気を醸し出している。急にこいつが、羨ましくなった。

「……粕谷とか言ったな」

「うん。そだけど」


「……俺について、何か知ってることはあんのか?」


 その時だ。
 急に粕谷は、足を止めた。つられて、俺も立ち止まる。


 粕谷の瞳から、光が消えていた。


「あまり……いい噂じゃないよ。聴かない方がいい」


 それは、真剣な眼差し。本気で心配してくれている、剛い心。
 先程までの粕谷とは違う、何かがあった。


「そうか、やっぱりな」

「……ごめん」

「じゃあ、なんだ。……それを知った上で、俺に近付いたのか」



「違うよっ!!」



 突然の大声。必死の否定。
 繁華街に響いたその声は、周りの人々を振り向かせるには充分だった。

「……ごめん」

「…………」

「でも、違う。違うんだ。そんなの関係無しに……純粋にあいつらから助け出そうと思って……」

「……俺を、か」

「迷惑だったならあやまる。だけど信じて欲しい、僕はそんな噂は信じてない。唐津君は、そんなことをする人だなん
 て思えないんだ」

「じゃあ、以前にみかけた駒川を助けなかったのはどうしてだ」

「あれは……」


 粕谷の顔が暗くなる。
 驚いたのは、そこには何故か、微笑が含まれていたことだ。


「僕でも無理だよ。あんなのは流石に止めには入れない。入ったら僕もやられるしね。そんなバカな真似はしないさ。
 それに、そこまでして助ける奴でもない。だって……」





 この男は、恐ろしい。
 恐らく、俺が思っている以上に。





「だって……あいつなんだろ? 唐津君の噂を広めたのは」





 夜風が、吹き抜けた。
 粕谷は今、はっきりと笑った。蔑んだような、眼。




「お前……知ってたの、か?」

「まぁ、大体予想はつくさ。情報は色んなとこに転がってるしね」

「…………」

「僕はね、そういう奴が大嫌いなんだ」

「…………」

「唐津君がわざわざ呼び出してあいつをボコさなくても、あいつは普通に成敗されるよ」

「お前、まさか全部知って……」




 粕谷は、人差し指を口に当てた。
 そして、笑んだまま、耳元に向けて囁いた。




「僕は唐津君と仲良くなりたいんだ。どうぞよろしくね」




 俺は、目を見開いた。
 友達になれ……恐らくこれがこいつの要求。

 こいつは……凄くなる。
 多分、そのうちこの大人数のクラスを取り仕切る存在になる。



 そうはさせるか。

 どんな点でも、俺は絶対にお前には負けない。お前には見下されない。


 どんな努力にだって耐えてやる。一生懸命、歯を食いしばって生き延びてやる。
 決して、こいつなんかには負けない。たとえこいつが他の生徒を圧倒したって、俺は一筋縄ではいかせない。


 そうだ。俺は。



「……わかった。よろしく」



 久々に、笑ったような気がした。
 だが、それは安堵から来るものでもなければ、娯楽性のものでもない。


 武者震いだった。



「絶対に、負けねぇからな」







 そして俺は、粕谷の手を、剛く、毅く、握った。








  【残り11人】





 PREV  / TOP  / NEXT