たとえばこんなことって、ないだろうか。 一日が終わり、夜寝る前になって、ようやく気付くんだ。 ―― あぁ……そういえば今日は、誰とも喋ってない。 果たして、ボクが最後にリアルで話をしたのはいつのことだったっけか。 家族? そんなの、まともに顔を合わせたことすらない。母親は不倫相手と共に失踪したし、それが原因で父親もア ル中になった。ボクは、はじめこそ夜遅くまで帰りを待っていたけれど、気がついたら終電も終わっていて、一人寂しく 布団の中へと潜ったりしていた。 学校? ボクなんて、確かに義務教育だし、給食にもありつけるから中学には毎日通っている。だけど、ボクは誰にも 話しかけないから、誰からも話しかけられなかった。多分、ボクの存在意義なんてないんだと思う。いるのかいないの かよくわからない存在……いや、きっといてもいなくてもいい存在なのだろう。先生に指名されたときくらいなんじゃな いか、ボクが声を出すのは、きっと。休み時間だって、ボクはひとり図書委員として校内の図書室に逃げ込む。ここは 静かだからいい。人込みの雑踏なんかは大嫌いだ。いるだけで吐き気がする。満員電車なんて、それこそ地獄絵図 だった。このボクにとっては。 小学校の時からずっと無口だったボクは、中学に入ったときから図書委員になることを決めていた。あまり本が好きで はなかったけれど、それでも休み時間に訪れる安息の地、それを正当な理由で得られるこの役職は、まさにボクにと って天職とも言えるのかもしれなかった。中学一年生のはじめのホームルームで、まずは役員を決めることになっ た。とはいえ、基本的に子供は目立ちたがりやなら学級委員になるし、面倒くさい子は絶対に立候補なんかしない し、まぁ保健委員や図書委員なんかは大体が推薦で誰かに押し付ける、そういうシステムになっているんだ。だけ ど、中学一年生、全く見ず知らずの子供もいるなかで、そんな押し付け行為をしたら今後の友好関係がどうのこうの と、色々とややこしいことになるのは目に見えている。だから、大抵は推薦ではなく、適当に担任が指名して決める のが主流だ。勿論二年、三年になるにつれてその制度もなくなり、押し付け合いが始まるのだが。あぁ、高校推薦を 狙っている奴は積極的に学級委員になるんじゃないだろうか。 そんな中、尤も面倒な仕事と認知されている図書委員に、ボクは立候補した。これは他の委員とは違って、三年間通 して就かなくてはならなかったから、ボクの立候補によって、大半の生徒はほっとしたのだろう。担任もボクに感謝し たらしいけれど、別にボクは褒められたくて就いたわけじゃない。そこが、安息の地だったからだ。 いつからボクは、無口になっていたんだろう。もともとあまり友達を作るのは得意じゃなかったし、特に異性に対しては 本当に喋れなくなってしまう。男の子と女の子が違う、そう認識したのは小学校の低学年の時からだった。その時くら いからだろうか、僕が、異性と話さなくなったのは。やがてそれは同姓にも及び、もう既にボクは喋ることすらおっくう になっていたんだ。 だから、ボクはインターネットにのめりこむようになったんだと思う。学校から帰ってきたら、まずはじめにすることはパ ソコンの電源を入れること。父親が自宅で仕事用に買っておいたものだったけれど、ろくに家に帰ってくることなんか なかったから、ボクの使い放題だった。そして、ボクはインターネットに接続すると、真っ先にチャットのページを開く。 特に決まったジャンルの者が集う場所でもない。ただ、公然とネット界のそこに、ぽつんと設置されている、雑談系の チャットだった。 ページを開くと、入室者は三名。チャコ、小太郎、はっぴーの三人。チャコと小太郎は今日も相変わらず話しているらし い。ボクがこのページを昼過ぎに見ると、大抵この二人のどちらかは入室している。ボク自身もそれについては少しだ け疑問に思ったので、一回だけ聞いてみたことがある。すると、小太郎はしがないヒッキーらしいが、チャコは病院で 入院中なんだとか。暇だから、ネット環境が充実している部屋でチャットをしているらしかった。しかし、はっぴーという 人物は見たことがない。また、友達になれるかな。そう思いつつ、ボクも名前を打ち込むと、入室した。 『小太郎:お、トシだ。こんにちは』 『チャコ:トシちゃんだー、こんちゃー』 『はっぴー:はじめまして』 一斉に返信が返ってくる。ボクの名前はネット上では『トシ』になっている。 どうやらまた特に目的もなく雑談をしていたらしい。今は好きな音楽について話していたんだとか。 インターネットはいい。相手と対面して話す必要がないからいい。そして、ボク自身を出さなくて済むからいい。誰でも 平等、年の差があっても平等。情報は無限にあるし、ボクもその情報の一員になれる。それがいい。ボクの日課は、 とりあえずネットに繋いだらここに顔を出すのが主だった。下手をしたらそのまま夜遅くまで話し込んでしまうこともあ る。だがそれは、自分が楽しいからやっているだけだし、別にそれで誰に迷惑をかけているわけでもない。ボクは、ボ クの好きなままにするだけなんだ。 『トシ:こんにちは、今帰ってきました』 『チャコ:学校? 毎日大変だねー』 『はっぴー:え? トシさん、学生なんですか?』 チャコと小太郎は馴染みだから気さくに話が出来るが、はっぴーと名乗るこの人物はボクとは初対面(別に対面はし ていないのだけれども)だ。まぁ、ボクのことは追々他の二人から伝わるだろう。 『トシ:そうなんですよ。はじめまして。はっぴーさんも学生ですか?』 『はっぴー:あ、呼び捨てでいいです。私は専業主婦やってますね』 『小太郎:主婦? あぁ、成程。だからここにいたんだ』 『チャコ:うちらトシちゃんとは結構ここで知り合ってるんですよー』 このはっぴーという人物、どうやら主婦らしい。ネットの世界では自分を偽ることなんて簡単に出来るが、まぁそれは あくまでネットだけでの付き合いだし、別に嘘でも構わない。その設定を、貫き通せばいいのだから。 『はっぴー:ちょっと暇だったので、ネットを色々と弄っていたら、ここに辿り着きました』 『トシ:そうなんですか。それは偶然でしたね。いつ頃からこちらで?』 『チャコ:私が一時過ぎに入ってー、はぴさんはそのすぐあとだったかなー?』 『はっぴー:そうですね、子供を寝付かせてからなんで、そのくらいですね』 『小太郎:子供? 子供までいるんですか?』 『はっぴー:えぇ、いますよ。今年で二歳になります』 ボクがきっかけで、どんどんとはっぴーの情報が入ってくる。これが楽しいからネットはやめられない。いつもなら、こ のまま雑談をしながら巨大匿名掲示板あたりをうろうろとするのだけれど、今日はこのままはっぴーと同席するのも悪 くないかもしれない。 『チャコ:子供かー、いいなー。私も可愛い子供生みたいなー』 『小太郎:チャコ、相手はいるのかい?』 『チャコ:いたらこんなとこいないもーん。小太郎、イヤミー?』 『小太郎:あー……ごめんごめん。前言撤回で』 うん、悪くない。別にリアルの世界で話なんかしなくても、ボクにはこの世界があれば充分だ。いちいち話をするのに 苦労もしない。友達だってここになら沢山いる。もっと、こっちにいたい。 ふと、気がついた。明日が中学校の終業式だということに。つまり、それ以降はパソコンもやりたい放題ってわけだ。 ボクは早く明日という日が来ないかと、凄く待ち遠しくなってきた。 学校に行くのも明日で最後。 ようやく、ボクも楽になれるんだ。
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