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 それは、真夜中のことだった。
 いや……正確に言えば真夜中というよりは、明け方に近い時刻だった。


 その時私は眠っていた。ぐっすりと眠り込んでいた。それが、徐々に深海の奥底から体が浮上するような感覚にとら
われ、ふっとまぶたが開く。どうして急に起きてしまったのだろうと思っていると、玄関のチャイムの音が何度も鳴って
いることに気がついた。あぁ、そうか、誰か来たのか。私はまだ半分寝惚けていた。
カーテンを閉めてある窓の外側はどうやらまだ暗いようだ。机に置いてある目覚まし時計を見てみる。時刻は午前五
時前、この時期ではまだ外は明るくなってはいない。新聞配達にしては少し変だ。
私はスリッパを履くと、いそいそと上着を羽織って玄関へと向かった。こんな時間に一体なんの用だ、そう少しだけ起
こされたことに苛立ちを覚えながら。後では、すっかり熟睡している妻が、相も変わらず寝返りをうっていた。

「はい」

『もしもし、戸田さんのお宅でしょうか』

「……そうですが。どちら様でしょうか」

 インターホンに話しかけると、向こうは律儀に返答をしてきた。どうやら酔っ払いがふざけてピンポンダッシュをしたと
いうわけでもないようだ。

『政府の者です。夜分遅く失礼致します。出来れば直接お会いしてお話させて頂きたいのですが』

「……? 今、伺います。少々お待ち下さい」

 政府の者が、一体こんな時間に何の用だろうか。私は少しだけ不安を覚えながら、いそいそと玄関へと向かう。
 玄関の扉を開けると、そこには一人のスーツ姿の男がいた。

「こんばんは。私、紺野と申します。ええと……戸田一平さん、ですね?」

「……どうも。そうですが、こんな時間になんの用件でしょうか」

「息子さんのことで、お知らせしたいことがありまして。……こちらになります」

 紺野と名乗った男は、そう言いながら、アタッシェケースから用紙を一枚取り出した。そして、それを私に手渡す。私
はそれに目を通してみた。そこには、信じられないことが書いてあった。

「……こちらに、署名と捺印をお願い致します。よろしいですね?」

「……そんな、こんなことが……!」

 そこに書いてある要項。それは即ち、息子が、もう二度と生きて帰っては来ないことを意味していた。男が、胸元か
らボールペンを出して私に向けた。私は咄嗟にそれを受け取ってしまう。ペンを持つ手が震えている。先程までの眠
気はすっかりと吹き飛ばされてしまっていた。
プログラム。全く関係ないと思っていたそれが、まさか現実のものになってしまったとは。私はそっと男の眼を見た。
その眼からは、一切の感情が見えてこなかった。まるで、人形の眼のよう。

「ご理解いただけましたでしょうか。でしたら、早急に署名をお願い致します。貴方の家だけではないんですよ、まだこ
 れから別のお宅にも訪問しなければならないので」

「……あの、これはもう……始まっているのでしょうか」

「そうですねー……、恐らくは」

「だ、だったら……今更拒否しても意味がないじゃないですか……!」

「……そうですよ。ですから、早急に署名をお願いしているんです。よろしいですね?」

私はへなへなとその場に座り込んでしまった。気がつけば、署名欄には判子までもが押されてしまっていた。そし
て、おぼつかない手でそれを男へと渡す。男はそれを淡々とした動作で再びケースに仕舞うと、一礼をしてゆったりと
した動作で表に止めてあった黒塗りの車に乗って何処かへ行ってしまった。
私はそれを呆けて見ていることしか出来ず、しばらくは動くこともままならず、結局新聞配達に来たアルバイトの青年
に話しかけられて、ようやく我に返ったのだった。

 三日後、息子は変わり果てた姿で我が家へと戻ってきた。妻はそれを見ると失神してしまい、私の呼んだ救急車で
病院へと搬送された。私は、息子の亡骸を見て、溜息をついた。目立った外傷は見受けられない。ただ、体と首が離
れた状態で送られてきていた。その顔は、引き攣っていた。
やがて、クラス全体の合同葬儀が執り行われた。妻はあれ以来頭がおかしくなってしまったらしく、遂には息子の死
までをも受け入れられなくなってしまっていた。それを見るに堪えかねた私は、この曰くのついた土地を離れた方がい
いと判断して、岐阜県へと引っ越した。丁度教師の採用で岐阜へと赴くこととなり、単身赴任を決めていたので都合
が良かったのかもしれない。環境が変わったことに妻は当初混乱していたが、やがて現実を徐々に受け入れ始めた
らしく、以前のような呆けは治ってきた。
……それがいけなかったのだろうか。ある日、妻は自殺した。近所のマンションの屋上から、飛び降りたらしかった。
現実を受け入れ、鬱になってしまったからなのかもしれない。ふっとした感覚で、飛び降りてしまったのだろう。こうし
て、私は一人になってしまった。一人で生活を続ける、ただのしがない教師となった。


 私は、徐々に浮上する感覚がした。そして、ふっと我に返る。静まり返った部屋、秒針を刻む時計の音がコチコチ、
コチコチと微かに聞こえてくる。時計を見ると、午前五時より少し前だった。
どうやら、夢を見ていたらしい。酷い悪夢だ。思い出したくも無いことを、どうやら思い返してしまっていたらしい。

 ……しかし、何故それを。今更。

 私は少しだけ、嫌な予感がした。
 ……そう。本当に、少しだけ。






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