あたしの手が、震えていた。 咄嗟に直子の手を掴む。 「ナオ、伏せて!」 転校生が、瞬時に拳銃を構える。あたしはそれを見るや否や、未だに窓から顔を覗かせている直子の顔を上から押 さえつける。まだ状況をうまくつかめていないわけではない。ただ、あまりの惨劇に、体が言うことを利かないのだろ う。何をどうすればいいか、うまく判断できないだけなのだ。一種の麻痺状態に陥っているのだ。 パァン! その手元から弾が放たれる。直後、頭上のガラスが割れて、破片が髪に降り注ぐ。あの刹那の動作で、これほどま での精確さ。決して敵にまわしてはならない、禁忌の生徒。 駄目だ、ここに隠れていたら二人とも殺されるだけだ。もう位置が完全にばれてしまっている以上、もう逃げるしか選 択肢は残されいないのだ。 あたしはそう判断すると、瞬時に直子の手を引っ張って走り出した。よく考えれば直子を置いていけば、簡単に逃げ 出せることが出来たのかもしれないのに、あたしは直子の手を引き剥がすことが出来なかった。 「杏奈……?」 「いいから早く! 逃げるんだよ!」 「あ。でもバッグが……」 「そんなのはいい!」 バッグに手を伸ばそうとする直子を、あたしは制した。そんなことをしている暇はないし、第一そんな重たいものを持っ て全力で走ることが出来る筈がない。直子は確かにテニス部だから一般的な女子よりは体力もあるし、脚力もそれ なりにはあったけれども、相手はあの殺人鬼転校生だ。きっとあの俊敏な動きから推測されるように、足も速いに違 いない。しかも、見た感じだと荷物はどこかに保管している様子だ。 「走れぇ!」 死にたくなかった。あたしが本当に望むものが『生』だとわかったから、生きたかった。 死にたくなかった。あたしがこれまでに積み上げてきたものを、どこの誰だかわからない奴に奪われたくなかった。 死んで、たまるか。 あたし達は必死に走った。息が切れそうなくらいに、全力で走った。 背後から、確実に転校生が追ってくる気配が伝わってくる。それが、疲れ果てた足を奮い立たせてくれる。とにかく、 少しでも遠くへ。生きるために、少しでも遠くへ。 走らなければ、生きるために。 「あっ!」 突然、手がぐいっと引っ張られる。後ろから無理に走っていた直子が、足を挫いたのだ。そう、こんな時に限ってだ。 準備体操もせずに全力疾走したのだから、当たり前といえば当たり前とは言えるが、なにもこんな時に起こさなくたっ て。あたしは、急いで直子を起こそうとした。急がないと、早くしないと。 パァン! 突然、背後から銃声が聴こえた。それは間違いなく、転校生が放ったもの。思えば逃げている最中、あたしは一発も 銃声を聴いていなかった。つまりそれは、弾の浪費を防ぐ為に、確実な状況で撃ったということ。どうしてこんな状況 で、そんなに冷静になれるんだ。 「い……ぁあ……!」 そして、それは恐らく狙っていた一撃。つまり、あたし達を足止めさせるためだけに放たれた一撃。 直子の左脛から、とろとろと血が流れ出ていた。肉は抉り取られ、どす黒い塊が露出していた。反対側からも風穴が 開いているらしく、同様に血が流れ出ている。 撃たれたのだ。直子は立ち上がろうとしたけれども、その激痛に耐えられないのだろう、力が入らずに、崩れ落ちた ままだ。 「どうしよう……どうしよう杏奈……! 痛い、なんか血が出てるよ……!」 あたしは、直子を立ち上がらせようとした。だけど、直子はすっかり力を失くしてしまったらしい。立ち上がろうと努力す るも、その傷では、きちんとした治療をしない限りどうしようもないだろう。勿論、こんなプログラム会場でそれを望むこ となど到底不可能だ。 なら、あたしはいったいどうすればいい。間もなく転校生はやってくるだろう。それまでになんとかしないと、撃ち殺さ れるのがオチだ。それだけは、避けなければならない。 なら、直子を見捨てればいい。 そうすれば、あたしは……あたしだけは、助かるんだ。 直子は、どうなる? 「杏奈……、助けて……」 親友を見捨てる。 そうすれば、あたしは助かる。そして……直子は、死ぬ。 「あたしは……」 あたしは、どちらを選ばなければならないのだ。迷っている暇なんかない。今すぐ、決断しなければならない。 殺人鬼は、すぐそこまで迫ってきているのだから。 「ナオ……」 あたしは、決意した。 「ごめん」 「……え?」 あたしは踵を返すと、全力で駆け出そうとした。 だが、右足首を掴まれた。瞬間、あの時の、佐野に襲われたときの悪夢が蘇る。血の気が、引いていく。振り向くと、 蒼白な表情をした直子が、唇を震わせていた。 「杏奈……私、置いてくの? ……嘘だよね? 私達、親友だよね? ね? 置いてかないよね?」 「やめて……」 右足首に込められる力が、強まる。あたしは、掴んでいる人物が佐野だと錯覚するような雰囲気に陥った。 「杏奈は、違うよね? 一人ぼっちになんか、しないよね?」 「やめて……やめてやめてやめてぇぇっ!」 耐え切れなくなって、あたしは掴まれている足首を無理矢理振り払った。それでも、直子は必死にあたしを抑えようと する。全身に力を込めて。その形相が、みるみる醜くなっていく。 あたしは今度こそ自由になって、全力で森林公園を駆け抜けた。 「置いてかないで……置いてかないで杏奈! 痛いの! 助けて! お願い! 一人にしないでぇっ!」 後ろから、直子の怒号が聞こえる。あたしは両手で耳を塞ぐ。 聞きたくなかった。あたしは親友を見捨てると決意したんだ。あたしは、死にたくないんだ。 「バカ! 信じてたのに! 杏奈、杏奈、杏奈! 裏切り者! 人殺しぃぃ!」 だけど、その透き通るような、だけどどす黒く響き渡るその怒号は、あたしの耳を、胸を貫いた。 あたしは無我夢中で駆け回った。何度か、背後で銃声が聴こえたような気がした。いや、あるいは一回だけだったか もしれない。そう、転校生が……直子に止めを刺すための、銃声。 どれくらい走っただろうか。 あたしは、ふと立ち止まった。辺りには、誰の気配も感じられない。時間感覚が、完全に抜け落ちていた。もしかした ら、随分と長い距離を走ったのかもしれない。もしかしたら、ほんの数百メートルしか走っていないのかもしれない。い ったい、あれからどれ位の時間が流れたのか、それさえもあたしはわからなかった。 息が、荒れていた。 あたしは、とんでもないことをしてしまったのではないかと。そう、思った。 朝日が、ほんのりと温かいのに、あたしの手は、凍てついていた。 【残り14人】
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