そして、十二月二十五日。クリスマス当日。 私は、プログラムの事後報告の資料をまとめて提出する為に、再び家を出た。 妻の文枝は、朝食の時もずっと黙っていた。その眼からは生気などは感じられず、まるで生きた屍だった。 一方の私も二日も徹夜をしているのだから、体力的には既に限界にまで達している。今日の仕事が終わったら、もう 何も考えずにとにかく寝よう。それだけを考えていた。 いつもなら、冬休みを迎えた栄一郎が、いよいよ目の前に迫りつつある高校受験に向けて、朝早くに目覚めて一緒に 朝食をとり、図書館の開館時間に合わせて家を出る、そんな光景があったろうに。朝食の席では、文枝が黙々と味 噌汁を啜り、時折たくあんを齧る音が空しく辺りに響き渡るのみだった。私も食欲はなかったが、ただでさえ無理強い をしているこの体、とにかく栄養だけでもとらなければと、同じく無心で食べていた。 「……それじゃ、行ってくる」 「いってらっしゃい」 淡々と、ただ時間だけが過ぎてゆく。 他の家庭でも同じような感じなのだろうか。現に、プログラムが終了した旨の臨時ニュースはとっくにテレビから流れ てきていたし、そして優勝者が既に死亡し、結局生還者は誰一人としていなかったということも知れ渡っている。クラ スの合同葬儀は年内に済ませてしまおうということで話はついていたが、当然ながらプログラムに巻き込まれる前に 既に栄一郎は死んでいたし、その葬儀も告別式も既に済ませてしまっていたのだから、私は参加しようとは思ってい なかった。なるべく参加して欲しい、との通達もきてはいたが、息子の火葬にも立ち会ってやれなかった自分が、他 の子供のそれに立ち会うというのも変な話なので、拒否した。息子にすまなすぎるだろう。 一応私がプログラムの教官を務めたことは、外部には洩れてはいない筈だ。一応機密事項ではあるし、万が一洩れ ていたのだとしたら、とてもじゃないがこんな通達は来なかっただろう。その点では、安心している私もいた。 それにしても、だ。私達はこれからどのようにして生きていけばいいのだろうな、とは思っていた。文枝は私が担当教 官を務めるということは知っていたし、それに対して賛成も反対も口にはしなかったが、内心では私に対してなにかし ら思うところがあるのだろうと思う。今となってはもう過去のことだから、今更何を言っても始まらないのだが、もしも… …もしも栄一郎が死ななかったとしたら、私は息子の最期を親として見届けることが出来たのか。教官としてではなく て、一人の父親として。黙って、見守ることが出来たのか。文枝の言い分もわかる。だが、私にはどうしようもないの だ。そう……私に出来る唯一の償いは。 なんとなく車に乗る気が起きなくて、私は電車で多くのサラリーマンと共に揺られていた。朝の通勤ラッシュはそれこ そ不快なものだったが、車に乗りながら考え事をしていて事故でも起こしたら、それこそ大変だ。変に体を支えなくて も安定するこのラッシュは、私の考え事をする行為を助けてくれたのかもしれなかった。 どっと堰を切ったようになだれ出るサラリーマンと共に、私も駅へと降り立った。そのまま流れに身を任せて階段を降 り、改札を出る。こちらまでは雪は降らなかったみたいで、どうやら山間部だけの局地的な降雪だったようだ。それで も太陽の姿は見えず、今にも雨が降りそうな重たい雲が、空を占めていた。 いつもの席に着くと、私は資料作成に勤しんだ。周囲の雑多な声をシャットダウンする。私は、無心で書き続けた。 記憶が薄れないうちに、あの本部で書き留めたことを纏め上げなくてはならないのだ。 名目上は戦闘実験となっているプログラム。生徒達の命を犠牲にしている以上、私はその詳細を事細かに書かなけ ればならない。生徒の心情、それに伴う行動、今回の場合は息子の直前の死と、そして機密事項であるはずの実験 薬がこのクラスに根回しされていたという事実の告発。背景にある学校の裏事情……余計なことまで書いてしまった ような気もするが、これは一つの麻薬組織を壊滅する手立てになる可能性が非常に高い。軍を通して、政府側に圧 制してもらわなければならない事項の一つだった。 もともとこれは私が責任となって指揮しなければならない仕事。プログラムにまでそれがついてきたことは、本当に偶 然だったが、あくまでプログラムはプログラム、別のこととして処理しなくてはならない。周りで一生懸命に走り回って いる部下を見て、私は少しだけ溜息をついた。 ふと、私は携帯電話のバイブが作動しているのに気付き、開いた。 新着メールが一件、私の元に届いていた。 私は指を動かす。そして、無事に返信を済ませると、大きく伸びをした。それに気付いた若手の後輩が、私の元へと 近寄ってきた。笑みを浮かべて、話しかけてくる。好意的な青年だった。 「随分と疲れているみたいですね。お茶、持って来ましょうか?」 「あ、あぁ。すまんな、熱〜いので頼むよ」 「了解ッス」 青年は笑いながらゆるい感じで敬礼のポーズをとると、早歩きで給湯室へと向かっていった。その後姿を見ながら、 栄一郎の事を思い出す。あのまま何事もなく成長していたら、果たしてどうなっていたか。もう一人くらい子供を作って おけば良かったなと、私は今更ながら後悔していた。 数分後、青年は本当に沸騰しているかのようなお茶を持ってきた。湯のみに触れただけで火傷をしてしまいそうなくら いだったので、私は苦笑する。 「ちと熱すぎましたかね……」 「いやいや、構わないよ。今日も寒いからね」 「はぁ……すんません」 私はその青年の行為を無駄にも出来ないと思い、少しだけ茶を啜った。……熱い。 ヒリヒリとする口元を必死で我慢しながら、私は纏め上げた資料をプリントアウトした。デスク脇のプリンタから、ガーガ ー音を立てて文書が印刷されて出てくる。 「……あぁ、そうだ。これをコピーしてホチ止めしてもらいたいんだが、今は大丈夫かな」 私は頭に手をやっていた青年に、そう呼びかけた。 「えーと……あ、これすか? いや、今は大丈夫ですよ。丁度一段楽したとこなんで」 「じゃあ、午後の報告会議で出席者に配るから……三十部、頼めるかな」 「了解ッス……ん? これ、あれですか? 戦闘実験の資料ですよね? ……いいんですか、俺がやって?」 「んー……ま、本来は私がやらなきゃいけないんだが、いいよ。中身さえ見なけりゃ。……でも見そうだな」 私は再び苦笑する。私がこの部署の管轄であると同時に、プログラムの担当を時折しているのも周知の事実だ。だ が、一応は部署ごとに仕事は分かれているので、本来はこういった別の部署の部下に中身を見られてはいけないの だが、まぁ大丈夫だろう。 青年は顔の前で手を横に振って、慌てて答えていた。 「いやいやいや、見ませんよ。だってこれ、ホラ……機密事項じゃないすか、一応。変に見たことがばれたらヤバイで すよ、俺」 「それもそうだよな。……して本心は?」 「バリバリ興味津々ッス……てちょっとちょっと」 「いいよ、私が許す。そうだな、とりあえず中身を見ても構わないが、頭に入れなきゃいいよ。それでどうだ」 「了解ッス。えーと……これで全部ですかね。じゃ、やってきます」 「よろしく頼むよ」 私は青年を見送ると、再びバイブの作動した携帯電話を取り出した。 またメールが一通届いている。どうやら先程の返信に対する返事のようだった。私はメールを開けた。 『では、七時に高架下の飲み屋で 的場』 私は携帯を閉じると、再び通常業務に戻った。 現在時刻はまだ昼前。先は、まだまだ長い。
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