2008年1月10日、3学期始業式の朝。 粕谷 司(東京都北区立霧ケ峰中学校3年A組男子7番)は、まだ夜が明けたばかりの時刻に、近所の池の周りで 早朝マラソンを行っていた。 先日、彼が医師から診断された病名、それは絶望的なことだったが、一応普段の生活に支障は無かった為、特別に 学校に登校する事も許可されていた。別に、体はどうってことなかった。だから、今までどおりの生活を続けよう、そう 思って彼は今もこうして毎朝の日課であるマラソン(といっても近所の池のある公園を軽く一周するだけだったのだ が)をしていたというわけだ。 まだ早い時間なのに、老人がベンチに座っていたり、若者が犬の散歩にやってきたりしている。そしてここにいれば、 もうそろそろ彼女もやってくる頃合の筈だ。 「あ、やっぱり来てた。かーすやー!」 後ろから大きな呼びかけが聞こえた。その手には紐が握られていて、その先には決して小さくはない犬(その名前は 知らない、そういう知識は無いものでね)が口から舌を出しながら走っていた。そしてその紐を持っている少女、腰ま での長いロングヘアーをなびかせて走ってくるその彼女は、幼馴染で同じクラス、辺見 彩(女子20番)だった。 「何だよ、今日も愛犬の散歩か?」 「当たり前じゃない。毎日欠かさずやらなきゃ、運動不足になるもんね!」 溜息を軽くつく。そしてそのまま一緒に池の周りを走る。それは司にとって、数少ない楽しい時間であった。もしかす るとそれは例のあれなのかもしれなかったが、そんなこと口に出してなんか言えない。いや、もしも言ったところで冗 談でしょ、と笑われるだろう。 今、この国にはある出来事が起きている。ベビーブームというもので、子供の数が異様に多い現象だ。数年前にで きた少子化対策の新しい法案だかなんかの影響で、全人口の30%以上が未成年という極めて異例な事態に陥って いた。それは勿論学校にも影響を与える。この学年だけでも5クラスで340人という数。ありえないほど大人数なの だが、その割にはあまり教室が無い為、無理矢理詰め込まれているという感じだ。ちなみに我がA組は68人もの生 徒がいる。 「じゃ、あとで学校でね♪」 いつのまにか楽しかった時間も過ぎ、司は家に帰る。自分は兄弟の末っ子だ。一番上の兄は既に成人してサラリー マンになって家にはいない。次男は中学を出ると工事現場に所属する事になり、飯場生活な為、同じく家にはいな い。そして、中学3年生の自分がいる。 両親は母親が水商売で朝帰り、父親は夜の警備員という職業だった為、家には司1人しかいなかった。 司は朝食をトーストで済ませると、制服に着替えて学校へと走っていった。 我ながら結構ハードな生活だ。何故毎日欠かさず早朝ランニングをしているのか? その理由はたった一つ。あの男 にだけは、負けたくなかったからだ。いや、負けつづけているからこそ、どうしても勝ちたかったのだ。勉強でも、体育 でも、あるいは私生活でも、なにもかもあいつの方が一枚上手なのだ。 くやしい。中学校生活の中で、どうしても一度は負かしてみたい相手だった。 「おーい」 突然後ろから声がした。自分だろうか? 振り返ってみると、2人のクラスメイトがいた。やっぱり自分を呼んでいたのか。相変わらず仲がいいんだな。 その2人、秋吉快斗(男子1番)と湾条恵美(女子34番)は学校でもピンキリカップルと呼ばれている変わったカップ ルで、どう考えても付き合っているようには思えないから可笑しい。ちなみにピンキリカップルという奇妙な名前の由 来は、出席番号にちなんで付けられていた。 まず秋吉快斗。彼はわかりやすいほどスポーツマンで、体つきががっしりとしている。背も高い。そのくせ居合道なん てものが趣味だとかで習っていると聞いた。一度家に遊びに行ったときに本物の刀を見せてくれた事もあった。だが 決して強面という感じではなく、まぁみんなからは信頼されている人物だったと言っても良い。司の親友でもあった。 続いて彼女、湾条恵美。某電話帳で調べても必ず一番下に位置している。今まで出席番号が最後以外になった例 がないらしい。背はあまり高いとは言えず、せいぜい160cmあるかないかくらい。肩にそろえたショートカットの髪 を、トレードマークの赤いヘアバンドでしっかりと止めている。その可愛らしい風貌に憧れている男子も多いのだろう が、流石に幼馴染には勝てないようで、いやはや。彼女とも馴れ合いで仲良くなった。 「おいおい、もうそろそろおまえらは受験なんだから手をつなぐ事くらいやめたらどうなんだ?」 「そんなこと言ったってねぇ……。いいじゃん、これが普通なんだから」 「かーっ! 憎たらしいね。僕も誰かさんみたいに付き合ってみたいもんだよ」 その『誰かさん』はちょっとむっとした様子で言い返してきた。 「粕谷、お前には悪いけどさ、お前が好きなそいつ、他にも狙っているのがいるぞ」 「え? 辺見が? 誰、秋吉知ってんの?!」 「誰も辺見とは言ってないんだけどなぁ……そうかぁ、やっぱり辺見だったのかぁ……」 そんなことにあっさりと引っ掛かってしまった。悔しい事は悔しいのだが、それがまぁ快斗らしいところだとも言える。 校門をくぐると、後ろから肩を叩かれた。 「明けましておめでとうっと、よぉ粕谷」 「だったら年賀状送れよ。携帯のメールなんかで済ませやがって」 「いいじゃん、わざわざ書くようなものでもないし」 彼、奈木和之(男子23番)は顔に笑みを浮かべながら話し掛けてきた。 一応友達なのだが、ちょっと軽いイメージがある彼は、実はかなりお人よしなのだ。そういうところが気に入ったので、 元来調子者があまり好きでない司にとって、一番軽い奴が彼だった。 「おっはよ、奈木君。元気にしてた?」 「そーそー! 僕もう元気100%!」 「100%ってつまりは1なんだけどね」 快斗がまたもや皮肉を込めて言う。さっぱりとした印象を持つ彼等とは、友達付き合いも盛んだった。 と、和之が振り向いて指さしながら言った。 「あのさ、粕谷。もう後3ヶ月なんだから、唐津とも上手くやれよ」 「……余計なお世話だよ」 司も正直、唐津洋介(男子8番)に関してはあまり触れて欲しくなかった。彼とは出席番号が前後というのもあるし、 常にライバル視していた。それは勉強でも、体育でも、はたまた給食の早食いとかなんだろうが常に争っていた。そし て常に僅差で負けていた。 どうしても、勝ちたい。何でもいいから、なんかの分野で勝ってみたい。それが、2人の関係を微妙なものにしていた のだ。せめて、卒業までに一回だけでも。 靴を履き替えて教室に入ると、その彼は既に教室に入っていた。 また負けたか……。 新学期という事もあって、司は嫌々ながらも唐津の前の席に座った。出席番号で勝っても嬉しくなんかない。 朝出会った辺見彩も、既に教室にいた。彩もたしかスポーツセンスは抜群だったと思う。勉強の方は、中の上くらいだ ったか。一体誰なんだろう、彼女が好きな奴って。案外和之もなかなか抜け目が無いからなぁ、あいつかもしれない。 一方、その頃司や快斗を含めA組のクラスメイト全員の家に桃色のマークをつけた男が乗っている黒い車が止ま り、家族を呼び出していた。 そして書類を突きつけると、手早く用を済ませて引き上げていったのだが、司達はそれを知らない。 現在このクラスの担任がどうなったかも司達は知らない。 そう、何も知らない、何も。 【残り68人】 Prev / Next / Top |