少しだけ、後退りをしようとする。 だが、体はその意思に反していた。怪我をしている右足が、崩れ落ちそうなほどに震えている。 「湾条」 朝見由美の声が、脳内を反響していた。鏡を見なくとも、自分の顔は蒼白になっていることがわかった。 朝見は、やる気だ。間違いなく、やる気だ。なんでかって、あの長谷美奈子(女子18番)とよくつるんでいた不良生徒 だからだ。二人仲良く援助交際をしていて、それがバレて停学になった仲だ。長谷がやる気になっているのはわかっ ている。なら、どうして朝見がやる気になっていないなどと言えようか。 手が、そっとスカートに差し込んでいるデザインカッターに触れていた。こんな武器で、朝見を倒すことが出来るのか。 こんな右足で、あの森 彩子(女子30番)を殺した時のように、俊敏に動くことが出来るのか。レイピアなどという長 物の間合いの不利の中、運動能力も高めの朝見を……殺せるか。 出刃包丁はデイパックの中だ。余計なものは一切入れていない為、出発時よりは軽くなっていたが、それでもこの松 葉杖を持った状態では、肩に背負うのも一苦労だ。いや、いっそのことこの松葉杖で戦ってやろうか。 「動くんじゃない」 唐突に、朝見はレイピアを眼前に突き出した。剣先が、目と鼻の先にある。その気迫に圧倒されて、右足が遂に崩れ 落ちた。支えを片方失い、後ろに尻餅をついてしまう。右足首の捻挫が、少しだけ電気を体に流す。それでも、恵美 は視線を逸らさなかった。逸らしたその瞬間、目の前のレイピアが自分の命を抉り取る、そんな気がしたからだ。 「朝見さん……」 唇が自然と動き、微かな声で彼女の名を呼ぶ。別に用があるわけではない。ただ、呟いた。 「いいか、動くんじゃないよ。黙ってうちの質問に答えるんだ」 レイピアは、ぴったりと吸い付くように眼前に突きつけられている。とてもじゃないが動こうとする気にはなれなかった が、黙って頷いた。小さく、何度も。 死が、すぐそこまで迫っているような気がした。 「誰を殺した」 瞬きもせずに、朝見はそう言い放った。その質問は簡潔明快で、だが、重々しかった。 「……彩子。森、彩子」 恵美は視線を逸らさずに、ゆっくり、そしてはっきりと答えた。 「一人だけか」 「そう……一人だけよ」 そして、沈黙。朝見は黙って、見つめていた。まるで瞳の奥を覗き込もうとするような、吸い込まれそうになる深い眼 が、どこまでも沈みきらない深い闇への誘いのような雰囲気を醸し出していた。 ああ、嘘かどうか、確かめようとしている。恵美は確信した。それもそうだ、今この状況下、生き残っているのは人殺し のみ。余程の事がない限り、他人の言うことを信じるのは野暮というものだ。 「一人だけよ」 今度は、よりはっきりと、強調するように言う。そして、続けた。 「彩子は狂っていたわ。この殺し合いをなんかのゲームだと勘違いしてたみたい。そして、あたしを殺そうとして斬りか かって来た。だから、殺した」 「そこまでは聞いてない」 朝見の眼が、一瞬だが揺れていた。本当に、一瞬だけ。次の瞬間には、視線は真っ直ぐにこちらを突き刺していた。 だが、今の言葉で少しだけ動揺した、それは間違いなかった。 これはいけるかもしれない。根拠はなかったが、恵美はそう直感した。 「朝見さん。貴女は誰を殺したの?」 だから、逆に質問をなげかけた。朝見が、呆気に取られている。この展開を全く予想していなかったのだろう。だが、 視線にこめる力をより一掃強めて、改めてレイピアを握りなおした。 「湾条、今のこの状況をわかっているのか」 強がりだ。今度ははっきりと感じ取った。この調子だ。ジャブを続けて、一気に逆転してやる。 「質問に答えて。先に言ったのはこっち。あたしは言った、だから貴女も言うの」 そして、再び沈黙。レイピアの剣先が、ぶるぶると震えていた。動揺しているのは明らかだった。こういうとき、何も言 ってはいけない。ただ、相手が語り始めるのを待つだけだ。 「智佳」 真っ直ぐしていた視線が、徐々にぶれていく。まだだ。まだ、何も言ってはいけない。 「磯貝、智佳。うちが殺したのは、磯貝智佳だ」 磯貝智佳(女子2番)。朝見由美の幼馴染だ。長谷達と付き合うようになってからは、磯貝との付き合いは疎遠にな っているかと思えたけど、停学処分を喰らって、再び学校に復帰してからは、再び磯貝と2人で話をしている場面を、 恵美は何度か見たことがあった。 しかしその幼馴染を、今目の前にいる朝見は殺したというのだ。 「うちは……智佳の事を信用してた。だから、あの出発地点で智佳を待ってた。丁度席次も近かったし。そして、ずっ と一緒に行動してた。どっちかが死ぬ時までは、ずっと2人でいようって決めたんだ。だけど……」 ぶれていたレイピアが、ぴたっと動きを止める。 「智佳は、うちを裏切った」 こちらが何も言っていないのに、朝見は自分語りを始めた。ジャブが効いている証拠だ。 さらに、朝見は続けた。 「特別ルールが施行された時、うちはなんとかしなきゃならないと相談した。だけど、智佳は首を振って、そして笑って いた。大丈夫、大丈夫だからって……何度も繰り返していた。放送前になってやっと、智佳は動き出した。立ち上が って、一緒に歩こうかって、言った。そして、水の入ったペットボトルを差し出してくれた……」 なんとなく、朝見の声が震えていた。 この瞬間、恵美は勝利を確信した。何をするわけでもなく、この女は自滅する。そう思った。 「でも、うちは見てた。本当に智佳を信用していいのか気になって、少しだけ周りの様子を見てくるって言って、智佳 の傍を離れたんだ。そして、茂みの中からそっと智佳の様子を見てた。そしたら智佳、うちの支給武器のトファナ水 っていう劇薬を、あろうことか自分のペットボトルに入れてたんだ。最初は何を考えているんだって、思った。だけど この瞬間、うちは確信した。智佳は、生き延びる為にうちを殺すんだ……て」 幼馴染の思いがけない裏切り。それが、朝見を殺人鬼に仕立て上げた。そういうことか。 「ようやくわかったんだ、大丈夫の意味が。智佳は……自分は平気だからって意味でそう言ったんだ。だから、あたし は智佳の支給武器だったレイピアで、智佳を滅多刺しにした。そうじゃないと、うちが殺されるから。うちだって、まだ 死にたくなかったから……仕方なかったんだ……」 この展開は、既に予想できていた。そして、既にこの状況で何をすればいいかなんて答えは、とっくに出ている。 「それは……正当防衛だよね」 「仕方なかったんだ……」 「あたしも、正当防衛なんだよ。死ぬわけにはいかなかった。だから殺した。どう? 朝見さんと、全く同じ状況じゃな い。なのに、あたしは信用してくれないの?」 今度は、こちらが攻める番だ。 朝見の眼は、先程のような力は既にこもっていない。今はただ、中学三年生の少女に戻っていた。普段のような不良 少女ではない、おそらく、これが本当の、素の状態の、朝見由美に。 さらに、その弱りきった眼を見つめる。より一掃、力を込めて。 そして遂に、朝見は折れた。 ふっと視線を逸らして、大きく溜息をついた。そして、再び見つめる。その眼は、先程のような殺気が全く感じ取れな い、穏やかな眼になっていた。 「あんたの言うとおりだ、湾条」 そう言うと同時に、突きつけていたレイピアを、外した。緊張がまるで雪解けのように解けて、互いに安堵の息をつく。 恵美自身にも、いつの間にか、朝見を殺すという考えは、消えていた。 「負けたよ」 朝見が、笑った。初めて見た、彼女の笑顔。彼女は、こんなにも美しい笑顔が出来たのだ。援助交際の時のような作 り笑いなどではなく、純粋に笑う彼女の顔は、美しかった。 知らなかった。教室での、長谷と交流があった朝見の素の部分を、恵美は知らなかった。おそらくプログラムという事 件が起きなかったら、一生気付かなかったであろう、朝見の本質。まるで、間熊小夜子(女子25番)の時のような感 じがして、軽く懐かしくなった。 人は、見かけで判断してはいけない、か。 本当に、そうなんだな。 「ねぇ、湾条。話があるんだけど」 朝見のその言葉は、今度は、全く殺意が感じ取れなかった。 恵美は、胸を撫で下ろして、彼女へと近付いていった。 【残り11人】 PREV / TOP / NEXT |