午前9時半。 B=7、水田。 入江浩太(男子1番)は、あたりを注意深く観察しながら歩いていた。誰か、いないか。人の気配を常に察知しよう と、警戒しながら歩を進めていた。 あのとき、どうして自分は、彼女を待ってやらなかったのだろう。その、後悔の念が、自分の心を締め付ける。まだ放 送では呼び出されていない彼女。今頃、どうしているんだろうか。どこかで、一人ぼっちで、今もこの会場を彷徨って いるのだろうか。みんな、自分のせいなんだと思うと、どうしようもなくなって、奥歯をかみ締める。 自分が出発したとき、頭の中はこんがらがっていた。突然拉致られて、連れて来られた謎の教室。唐突に現れた女 は、これがブログラムであることを告げた。ブログラム、どこかで聞いたことのある、単語。それが中学三年生による 殺し合いを示すものだなんてことは、記憶の片隅に押しやられていたんだ。そんなもの、自分達とはずっと無関係だと 思っていた。それが、勘違いだと気付かされたときには、もうどうすればいいのかわからなくて。 だから、浜田篤(男子18番)には本当に救われたんだ。芳田妙子(女子21番)や上田健治(男子2番)といった、クラ スでも賑やかな面子が、なんとかあの場の緊張感をほぐそうと奮闘してくれた。結局は門並と名乗った女教官にたし なめられてしまったけれど、そのおかげで自分はなんとか自我を踏み留めることが出来たと思っている。そうでなかっ たら、自分は最初の時点で暴走して、なにをしていたのかわからないのだ。いざというとき、人間がどんな行動に出る のかわからないなんてこと、そんなことは、とっくの昔からわかりきっていることだ。 そして、出発の時間がやってきた。あれだけ場が和んでいたのに、何度か外から聞こえてきた銃声や爆音。それが、 もう戦闘が始まっているのだということを伝えてくれた。出来ることなら、巻き込まれたくない。どこか適当に遠くで起 きていて、自分はその傍観者でありたい。直接、関わりたくない戦闘。そうもいってなんかいられないってことは、わ かっていたのに。 玄関にさしかかって、強烈な臭いが漂ってきた。それは、死臭。この夏場だ。山村とか言っていたけれど、まぁそれな りに気温はある。死体だってどんどん腐る。夏場に、ちょっと停電が続いて、冷蔵庫の中が無残なことになった、あの 時の臭い。とても、嫌な臭い。その発生源が、そこに転がっていた。 死体だった。 誰のものか、判別も出来ないほど。その死体は、酷かった。親しい奴でない限り、顔無しでの判別は不可能だと思わ れるくらい、それは酷かった。あまりにも衝撃がでかすぎて、それが、先程まで一緒に教室にいたクラスメイトだと信じ たくなくなるくらいだ。こいつは……誰なんだ。放送が流れれば、誰だったのかはわかる。だけど、出来ることなら、も う直視はしたくない。自分は、逃げるようにその場を去ったんだ。まだ、教室に残っていた、彼女のことを待つこともな く。 本当に、浅はかだった。あそこで彼女と合流できていれば、どんだけ楽だったか。このクラスに親しい奴は何人もい る。だけど、やっぱり本当の意味で一緒にいたいのは彼女だった。最後の一人しか生き残ることが出来ないというル ール上、彼女と共にいることは即ち死を意味する。もともと一人で行動していたとしてそれでいて優勝できるという自 信もなかったのだけれど、やっぱり、彼女だけは、守り通したかった。 それから毎回、放送が流れるたびに、心臓が止まってしまいそうなくらい緊張する羽目になる。そして、彼女の名前 が呼ばれないたびにほっとして、そして呼ばれた、つまり死んでいった生徒達に申し訳ない気持ちで一杯になるん だ。恐らくそれは、向こうもそうなんだろう。だから自分は死ぬわけにはいかない。せめて彼女と合流するまでは、な んとしてでも生きながらえなければならないんだ。 だから、ドのつくくらい慎重にもなる。辺りを見回しやすい水田を歩いているのもそのためだ。向こうがこちらを見つけ やすいように、こちらからも相手が見つかりやすいようにする。それが、危険だけれど最も簡単に見つけ出せる方法だ と思っていた。途中、何度も周辺から銃声が聞こえてきたけれど、相手の姿は見えない。自分が狙われているわけじ ゃないと知って、少しだけほっとする。この水田地帯は意外と広い。まだまだ、時間がかかりそうだった。 第一、彼女がここにいるとも限らない。時間がたつにつれて禁止エリアが増えていく以上、行動範囲も狭まってきて、 必然的に遭遇する確率はぐんとあがる。だが、それは逆に、狙われる確率もあがるということだ。自分の武器はそう いった戦闘に適していない。だから、あとは運を天に任せるしかなくなってしまう。 とても、辛い現状。あの、最初のほんの気の緩みさえ、なければ。それが、後悔。それが、辛辣。 ふと、風が吹き抜ける。青々とした水田。そこに、誰かの影が見えたような気がした。 よく目を凝らして、辺りの様子を探る。少し離れた位置に、一人の女生徒が立っているのが見えた。彼女だろうか。そ う思って、そちらの方をじっと見る。向こうも、どうやらこちらに気がついたらしい。手をあげて、振っていた。その顔は、 笑っていた。 直後、その顔が太陽にさらされる。眩しいくらいの笑顔を放つ女生徒は、目黒幸美(女子17番)だった。教室内で は、まぁよく話す女子のなかの一人だ。自分が入江浩太だと知って、向こうも安心しているのだろう。だけど、残念な がら自分の目的の人ではない。少しだけ残念に思いながらも、挨拶くらいはしておこうと思って、近寄ろうとする。 だけど、そこで足を止める。 これは殺し合い。目黒幸美を疑っているわけじゃない。だけど、奇妙な違和感。 目黒が、なにか喋っている。遠くて、よく聞き取れない。だけど、近づいちゃいけない。そう、本能が訴える。 風向きが、変わった。自分が、風下。すうっと吹き抜けた風の臭いは。あの、臭い。 目黒……! 「浩太くーん! 早くおいでよー!」 早く、こっちへおいで。怖がらなくていいから。あたしは、なにもしないから。おいで。さぁ、おいで。 そうささやきかける、目黒。なんとなく、嫌な予感がして。自分は、そっとあとずさる。 「なんでそっち行くのー? こないのー?」 臭いが、吹き荒れる。逃げろと、本能が告げる。 あいつは、危険だと。 「そっかー。こないのかー……」 目黒が、にんまりと笑う。両腕を、担ぎ上げる。そこに乗っかっているのは、なんともゴツい、ショットガン。 「……なら、こっちから行くね」 ズドンという、重く沈んだ音が、辺りに響き渡る。散弾銃から吐き出された無数の弾が、青々とした水田にばらまかれ る。その音が、告げた。位置について、よーい、ドンと。 一気に駆け出した。笑いながら追いかけてくる目黒から、少しでも離れようと、駆けた。どこまでも続くような水田。だ けど、ここは自分にとってのホームグラウンドだ。いったいいつからここにいると思っている。この辺の地理なら、誰に だって負けない自信があるんだぞ。 とにかく、走った。体力は温存している。まだまだ、走れる。どんどん、スピードがつく。 あれ以上近づかなくて正解だった。あれより近づいていたら、きっと射程距離に踏み込んでいたんだろう。間違いな く、今頃は蜂の巣だ。 とにかく、どこまでも走った。やがてあの臭いも薄れてきて、元の青々と茂る稲穂の匂いへと戻っていく。 辺りを注意深く観察する。人の気配を、探る。 どうやら、逃げ切れたらしい。 間一髪で、命の紐は繋がったままだった。 目黒幸美。要注意人物その一。 近づいたら、間違いなく殺される。そんな奴。 それが、彼女の生死が、急に不安になってきた瞬間だった。
|