第一章 合格発表 − 2 朝の通勤ラッシュの時刻も過ぎ、今はすかすかの状態の電車に揺られて、高松昭平(男子五番)は座席から流れ ていく田園風景をじっと眺めていた。太陽が、明るい。 ふと、隣の席で眠りこけている友人を見つめる。小さめの口をぽっかり開けて、一体どんな夢を見ているのだろうか。 そんな彼、大原祐介(男子二番)を、昭平はそっと肩を叩いて起こした。こいつも、きっと心配で一睡も出来なかったん だろうな、なんとなくそう感じた。 「祐介、次降りるぞ」 「え? あ、もう着いたの?」 私鉄の二両しかない小さな電車は、ゆっくりと駅に入っていった。 自分達の住む河内市立河内西中学校、通称西中の最寄り駅からのぼりで六駅。そこに、県立東高等学校はある。 西中から東高校へ行くなんて、なんかのギャグですか、とクラスメイトから笑われたものの、昭平はこの学校へ行こう と思っていた。この学校なら、自分のしたかったことが出来る。そうに決まっていると思えたから。だから親友の祐介 も誘い、一緒の高校を受験して、一緒に合格しよう。そう誓い合ったのだ。 そして、今日が合格発表の日。果たして自分は受かっているのだろうか。もし祐介が受かって自分が落ちていたらど うしようか。不安を拭い切ることが出来ず、結局一時間も眠ることは出来なかった。普段から深夜のラジオ放送を聴い ていた昭平でも、流石に一時間しか寝ていないと眠くて仕方ない。 「ねぇ、昭平。もしかして、寝てなかったりする?」 「ん? うん……やっぱり緊張するからなぁ」 「ふぅん、僕もそうだよ。いつもよりも三時間くらい睡眠時間が足りないんだ。もう眠くってさ、電車の中ずっと爆睡して たし」 気分を紛らわすために、くだらない話を続けるが、やはり東高校に近づくにつれて、心臓は高鳴っていった。同じよう な受験生が、胴上げをしていたり、笑ったり、時には泣いている子もいた。一体自分はどの行動を起こすのだろうか。 いつの間にか、合格者一覧が掲示されている白いボードが遠くに見えていて、その前に人だかりが出来ている。 「いよいよだな」 「うん、いよいよだね」 自分の番号は「二一三」で祐介の番号は「三〇二」だ。とりあえず近くまで行くと、突然前にいた女子が泣き出した。 ああ、落ちたんだな。自分はどうなっているんだろう。 不思議と、かわいそうに、とは思わなかった。 「あった! 合格だ!」 隣で必死に目を凝らしていた祐介が、突然両手を挙げた。同時に、昭平も自分の番号が書かれていることを確認し た。念のため、受験票の上下が逆になっていないことを確認する。 「やったな、祐介。俺達、高校も一緒だぞ」 「うん。やべぇ、マジ嬉しいよ。まさか合格できるなんてさ、思ってもいなかった」 早速、晴れて合格者となった二人は入学手続きをすることにした。受付窓口の前に、きちんと整列する。 ふと、今受付している女子の顔に、見覚えがあるような気がした。 「おい、祐介。あれさ、前田じゃないか?」 昭平は、祐介の肩をたたき、今受付をしている女子の方を指差した。 「よーく見てみろよ。あれ、多分前田だろ?」 「ん? あの子のこと? えーとね……あ、ホントだ」 確かに、あの女子は昭平と同じクラスの前田綾香(女子五番)だった。彼女もこの学校を受験していたのだろうか。 「なんだ、前田も合格していたんじゃん。なんでうちらには教えてくれなかったんだろう。うちらが東高校受けるって、ク ラス中が知っているはずだろ?」 たしかに、その通りだ。まるで前田は(そう、一緒の出席番号なのにだ)隠れるように手続きを済ませて、そそくさと出 て行ってしまった。一体どういうことなのだろうか。 「まぁ、前田にもなんか事情があったんだろ? 別にいいさ、後でいくらでも聞けるんだから」 なんとなく彼女を気にしながら、昭平は今は合格した喜びに浸っていた。手続きを済ませて、祐介を待つ。今は、と にかく喜びを親友と分かち合おう。学校に戻るまで、少ししか時間はないけれども、楽しい時間は一瞬しかないという けれども、そのささやかな幸せを、親友と分かち合おう。 受かって、本当によかった。 「あれ? 昭平、泣いてんの?」 「ば、馬鹿。そんなわけないだろ!」 「なんだか怪しいね。嬉しくて仕方ないんでしょ?」 「お、お前はどうなんだよ」 正直、泣きそうになったのは事実だが、まさか泣く前に泣くことを察知しているとは。なかなかやるな。 「僕は、家に帰るまで泣かないつもり。嬉し泣きってさ、やっぱり一度くらいはしたかったからね。恥ずかしく思うことは ないんじゃないの」 「ん、そうか……。そういう考え方もあるんだな。じゃあ、今ここで俺を茶化さなくてもいいじゃないか」 二人で笑う。別に卒業式なわけではない。たとえ卒業式であっても、二人はこれで今生の別れというわけでもな い。同じ高校なのだ。同じクラスになる可能性だって充分にあるのだ。今何も、ここで泣くことはない。この幸せに対し て、わざわざ泣くことなんかない。 無理矢理自分を納得させて(それにしてもいい加減だな、我ながら)、溜まっている涙をなんとか出さずに済ませる。 「さぁ、学校行くぞ」 二人は、合格した嬉しさと、あのクラスにまた戻るのかというなんとなく嫌な気持ちを持ち、帰りの電車に飛び乗った。 「あーあ、稲葉さ、喜ぶと思う?」 相変わらずすいている帰りの電車の中、祐介が突然言い出した。 「稲葉? 喜ぶわけないじゃん。だってさ、あいつは俺達の前で堂々とお前らが大嫌いだって宣言したんだぞ。受かっ たって落ちたって、あいつには関係のない話なのさ」 「やっぱりそうだよね。じゃ、別に職員室に挨拶行かなくてもいいか」 「いいよいいよ。それよりさ、前田のことが気になるから、伊藤が知っていたかどうか聞いてみようぜ」 前田綾香と幼い頃から付き合っている伊藤早紀(女子一番)なら、もしかすると前田が東高校を受験することを知って いるかもしれなかった。彼女なら頭もいいし、私立本橋学園にも余裕で合格しているだろう。今合格の話をしても、別 に問題はないはずだ。 そう、なんとなく昭平は、前田が気になって、真相が知りたかった。 それは、なんとなく春を告げる心地よい風が吹いた、そんな感じのした日だった。 栃木県河内市立河内西中学校。 全校生徒72名、うち三年生全16名。 近年、少子化対策として政府が打ち出した法案は、再び戦後のベビーブームを覆すような出来事であったが、それ も所詮は法律執行後の話。昭平たちの世代には関係のない、いわば最後の少子化世代ということになる。廃校寸前 だった西中も、今は着々と生徒数が増え、教育機関は確実に潤ってきた。そう、子供がいれば、学校は成り立つの だ。だから、少子化世代の昭平たちの世代はだんだんないがしろにされてきて、教師陣は増えていく子供達につきっ きりになるようになっていった。 そして、その扱いのひどさから次第に荒れ始めた三年生。教師は誰も彼等の担当をしたくなくなった。そこで、西中の 教師陣は、無能で役立たずの駄目教師を送り込むことにしたのだ。その教師の名前は稲葉康之。そのあまりの不甲 斐なさに、保護者達がやめさせるように説得した教師は、今は学校内で唯一の三年生の教室にいる。当然生徒から は嫌われ、その我侭な態度は教育委員会から警告が何度も来たほど。学校から邪魔者扱いされたクラスに、最悪の 担任。まさに昭平たちのクラスは、不幸なクラスであった。 そんなクラスは勿論今も荒れ果てている。一年や二年の教室と比べたら、その壊れっぷりは半端ではない。壁には 幼稚な落書き、そして殴った後があったり、剥がれかけている床板。黒板は綺麗に消されることなど一回も無く、勿 論掃除当番は連日サボり続けている。掲示物は全てビリビリに破かれ、見るも無残なことになっている。半壊した机 はそのまま放ってあるし、ガラスにはひびが入っている。そして教室内には煙草の吸殻が落ちているほどだ。 昭平は、それらを全て大人達のせいだと思っていた。大人達は自分達の世代を除け者にして、新しい世代に構って ばかりいる。大人達がもっときちんと自分達に振り向いてくれていれば、こんなにぐれる生徒なんていなかった筈だ し、それに担任もしっかりした教師がやっていてくれたのなら、こんなに悲惨な状況にならなくともすんだのかもしれな い。一体、何を考えているのだろうか。 教室の扉を開ける。相変わらず悲惨な状態の教室が目に飛び込んできたものの、今ではこの光景にもすっかり慣 れてしまった。 「あ、どうだったの?」 開けた瞬間、まぁ予想していたことだが、伊藤早紀(女子一番)が昭平達に大声で聞いた。どうだったの、という質問 は、受験結果以外に他ならない。後ろにいた祐介が、顔に笑みを浮かべながら言った。 「うん、僕も昭平も、両方とも県立東高校に受かりました!」 「わぁ、おめでとう!」 早紀が大声を出した瞬間、教室の後ろの方に固まっていた生徒が、前に出てきた。いわゆる、ここの教師に反発して グレた、犠牲者達だ。その中でも比較的仲のよかった平山正志(男子七番)が笑いながら言った。 「そうか、お前達も受かったのか。これで八割が合格したんだな」 正志は、夏休みが終わった後、突然髪を茶色く染めてきた。個人の自由だから、と理由は聞かなかったものの、それ からの正志は変わっていった。夜の繁華街に出てはふらついているらしく、仲のよかった自分の家に、深夜遅く正志 の母親から電話が掛かってきたものだった。まさか正志もグレると思っていなかったから、正直意外だった。 「うん、正志は、どうするつもりなの?」 そして、正志は別の公立高校を受験したが、夏休み以降ろくに勉強をしていなかったせいか、残念ながら落ちてしま ったのだ。当人は気にしている素振りは微塵も見せないが、やはり相当応えているのだろう、最近はどうも元気が無 かったように思える。 「ん? いや、いいんだ。俺、親元から離れて、自立するつもりでいるんだ。丁度自動車の整備工場で人員募集して いたからな、そこで住み込みで働こうと思ってる。別に工場に勤めるなら大した勉学は必要ないはずだからな」 「そうか、就職するのか。なんだか大人に見えるよ。親に反抗しないで我慢している俺達から見ると、立派だよ」 「おいおい、お世辞なんていらないよ。俺は高校に受かってもあまり行く気に離れなかった。なんとなく受けたからな、 なんとなく高校行ったって、なんも出来ないと思ったんだ」 「ふぅん、俺も大した目標はないけれどさ、一応大学行くつもりだから、将来何をするのかはそのうち考えておくよ」 一方、祐介は早紀と二人で話しているようだ。どうやら早紀も私立高校には無事受かったようなので、顔には安泰の 色が出ている。まぁ、またこれから勉強の日々が始まるわけだが。 昭平は、一旦正志と話すのをやめて、早紀の方へ近寄った。 「なぁ、伊藤。あのさ、前田のことなんだけど……」 「ああ、綾香? 綾香がどうかしたの?」 あれ、と思って祐介の方を見た。相変わらずにこにこしているので、どうやらまだ前田が東高校を受けたことに関して は質問していないようだった。 「前田ってさ、その……。なんで東高校受けたんだ?」 「え、東受けてたんだ、綾香って」 「知らなかったの?」 「いやね、受験に関しては何も聞かないでくれって言われてたのよ。なんか都合があるのかなとは思ってたけれど、 別に隠すことじゃないわよね。なんで知ってるの?」 昭平は、前田が東高校の合格者受付の窓口で手続きをしていたことと、そそくさと帰ってしまったことを手早く話し た。その間、早紀は何も言わず、黙って頷いてばかりいた。全部話し終わると、首をかしげながら、わからないわね、 と呟いた。 「なんで隠す必要があったのかしら? 別に高松君と大原君が東高校受験するってことがわかってたからというもの なのかな?」 それも一応は考えていたのだ。だが、そんなことで恥ずかしくなるなんて考えられなかったので、その案は早々に破 棄していたのだが。 「まぁ、前田に聞けばいいことか」 そう、言ったときだった。 突然、教室の後方で何か鈍い音がした。もうこんなクラスでは聞きなれているくらい、日常茶飯事の音。殴る音だ。 「なんだテメェ! もう一度言ってみろ!」 怒鳴り声を上げているのは後ろを見なくてもわかる。町田宏(男子八番)、クラス一の暴れん坊だ。確か町田は、家庭 の事情だかなんだかで、高校に行かず卒業後大工になるといっていた覚えがある。もっとも、あまり付き合いは無か ったので詳細は知らなかったが(ちなみにその情報は全て正志から聞いたものだ。グレてから、正志は連番で後ろの 席に座っている町田とも意気投合し始めていた)。 やれやれ、また誰かが町田を刺激してしまったのだろう。一体誰だろうか、と後ろを見てみると、体格が町田よりも二 回り小さいひ弱な少年、近藤悠一(男子三番)だった。 「この野郎、自分が有名私立に受かったのがそんなに嬉しいか!」 続けて町田が吹っ飛んで壁に叩きつけられた近藤を片手で持ち上げている。胸倉を掴まれている近藤は、当然だが 苦しそうだった。 「この餓鬼ぃ、あからさまにベラベラベラベラ自慢しやがってぇ、そういう奴は一番むかつくんだよ!」 「そんな……。僕、自慢なんか……」 「また言い訳するんか? なぁ、30分前にここ来てよ、以来ずっと私立受かったことをみんなに言いふらしているの は、自慢じゃないって言うのかい?」 「いや、だから……」 「俺はな、そういう言い訳くさい野郎が大嫌いなんだよ。特にお前みたいにちょろちょろとうぜぇ奴はな。歯ぁ食いしば れ!」 やばい。町田の奴、相当怒ってる。あんな怪力パンチ顔面に食らったら、華奢な体の近藤なんか、一発で伸しちま う。 どうやら正志も同じことを感じたらしく、町田をなだめようと急いで近づいたが、既に拳は繰り出されていた。 「やめな!」 だが間一髪。すんでの所で、その声によって町田の鉄拳は止まった。その甲高い、だが威厳のある声。あの町田に 口を出せる女子なんか、このクラスには一人しかいない。 「矢島……、どういうつもりだ?」 彼女、矢島依子(女子六番)は椅子からすっと立ち上がると、茶色い髪を後ろで一纏めにしたセミロングのポニーテ ールをなびかせながら、ゆっくりと町田に近づいて言った。 「あんたさ、今そんなことしたら、退学だよ」 「あ? 退学?」 「そう、折角受験合格したのに、喧嘩に巻き込まれて進学禁止処分にでもなったら、あんた一生後悔するよ。それに 退学したら、間違いなく教師陣はあたし達を潰しに食って掛かってくる。それだけは絶対に駄目なんだよ。一緒に卒 業するんだよ」 近藤は、既に床にへたり込んで泡を吹いている。なんとも情けない。 一方の町田は、口をポカンと開けたまま、何か考えているようだった。きっと、ここで矢島の言うとおり近藤をしめるの をやめるか、それとも続けるかを必死に考えているのだろう。 「よし、わかった。一緒に卒業するよ」 「よぅし、あんたは物分りがいい。じゃ、さっさと気絶してる近藤でも叩き起こしておきな」 いや、やはり矢島は怖い存在だ。言っていることは正しいのだが、実に陰険に近藤をしめる方法を述べたまでだ。案 の定、町田に強力な平手打ちを三発ぶたれて、ようやく近藤は起き上がった。頬が真っ赤にはれている。近藤は痛 そうだったが、気絶していたためか何がおきたのかはわかっていない。 「矢島さんにだけは逆らっちゃ駄目ね」 早紀が小声でそう呟いた。昭平と祐介は、揃って頷いた。 近藤を合理的に痛めつけた町田はすっきりとしたのか、欠伸してそのまま自分の席で眠り始めた。ざわついていた 教室内は、今は静かになっている。教室の隅で、矢島依子と仲間である小島奈美(女子三番)、吉村美香(女子七 番)がひそひそ話をしているだけだ。 さて、その日の授業が終わり、昭平はまっすぐ家に帰った。合格祝いはささやかに行われて、その日の夜遅くまで 続いた。高松家に、久々に笑いが訪れたのだった。 ちなみに昭平は自室に行った後、携帯電話のメールで祐介に送った。 『やべぇ、結局前田にあのこと聞きそびれた(汗)』 返信。 『明日日曜じゃん。月曜に聞けば?』 『なんだ、結局嬉し泣きは堪能できたのか?』 『うーん、もう嬉しいっていう気持ちは消えてた(笑)』 『なんだそりゃ。じゃ、月曜に』 『うん、バイバイ』 月曜日に起こることを、彼等はまだ知らない。 ささやかな幸せが、一気に不幸のどん底に叩き落されることなど、まだ知る由も無かった。 そんなことは露知らず、昭平は勝利の余韻を残しつつ、深い深い眠りについていた。 戻る / 目次 / 進む |