校庭の片隅で、パァンと小気味良い音が鳴る。 硬式ボールをミットで受け取ったときの感触が、とても心地よかった。 「まだ腕は衰えてないようだな、雄輝」 「そりゃそーだよ。唯一の僕の取り柄だもん」 そう言って、雄輝は笑っていた。球を投げ返すと、慣れた手つきでそれを簡単にキャッチする。その姿を見るのも 久々な気がする。本当に、野球が好きな奴だ。 修平も誘ったのだけれど、あいにく今日はこの後は冬期講習が入っているらしい。あいつは、部活を引退してからか なり必死に勉強をしているのは知っていた。なんでも、どうしても行きたい高校があるのだとか。目の前にいる少年と は大違いである。まぁ、でもそれが雄輝の……これはもういいか。 今日は終業式ということもあって、部活動は基本的にはこの学校では行わないことになっている。あくまでも規制で はなく習慣な為、試合前だったりする部活は休み中でも毎日行っているようだが。そういえば、音楽部はコンクール の直前練習があるとかどうとか言っていたっけ。引退した三年生も指導にあたらなければならないとかで、ご苦労な ことである。ちなみにうちのクラスにも音楽部は三人ばかしいる。榎本達也(男子一番)、藤田 恵(女子十番)、そし て山本真理(女子十二番)だ。それぞれがなんの楽器を担当していたかまでは知らないが、なんかのコンクールで優 秀賞を取ったとかで、二学期始めの朝礼で表彰されていた。ちなみに、残念なことではあるけど、自分達野球部は表 彰は一度も受けたことはない。やれやれ。 先程教室で解散した後も、榎本がそそくさと帰ろうとしていたところを山本が逃がさなかった光景を見ている。山本に 関して言えば、どうして運動部に所属していないのか不思議なくらい運動神経は良い。体育の授業でも、かなり俊敏 な動きを見せていたし、また学力もそこそこで、ルックスも中の上だ。ちなみに、萩野の情報によると、彼氏はいない らしい、というか作る気がないらしい。以前放課後、小泉正樹(男子四番)の告白をあっさりと拒否したとか。お前はど っからそんな情報を持ってくるんだ。 そして、嫌がる榎本を柱から引き剥がし、行くよと言わんばかりに廊下を引き摺っていく。その姿は颯爽としていた。 それをぽかんと口を開けてみていた藤田恵が、慌てて後を追いかけていくのもまた微笑ましい。藤田恵という女子生 徒は、まさに天真爛漫な山本とは対照的に、清楚で可憐というイメージがぴったりな子だ。雄輝と同じくらいプレッシ ャーに弱いとかで、ソロなんかとてもじゃないけど任せられないよ、と山本が中峰に愚痴っていたのを聞いたこともあ る。少しだけ、共感できる自分が悲しい。 「栄一郎、ちょっと構えてくれない?」 「ん? あぁ、いいよ。思いっきりこーい」 そんなことを考えていると、唐突に雄輝が指示を出してきた。久々に投げることで、どうやら現役時代を思い出して きたらしい。自分も少しだけ思い出しつつ、屈んで構えを取る。この姿勢も随分だった。 もともと、自分は野球部に入るつもりは無かった。だけど、中学一年生の為のクラブ紹介の時、二つ上の先輩に勧誘 されたのだ。どの部活に入ろうか当時はまだ決めていなかったので、そのまま流れ的に仮入部して、そしたらいつの 間にかベンチで座っていたのだ。 キャッチャーというポジションも、いつの間にか決まっていた。元来ふっくらとした体格だったので、キャッチャーをやる のは当然だろうという監督の意向だった。どんな少年野球漫画の影響を受けたかは定かではないが、まぁどっしりと した構えが出来る以上、やらないというわけにもいくまい。お陰で、雄輝との奇妙なバッテリーが出来たのもあるし。 充分に満足しているさ。 「いっくよー」 刹那、凄まじい勢いのボールが手元に吸い寄せられるように飛んできた。そのあまりの速さに、一瞬だが仰け反って しまった自分がいる。 バァァンッ! という音が誰もいない校庭に響き渡る。なんと、まぁ。 「おい、雄輝。久々なんだから手加減しないと、肩壊すぞ?」 「ヘーキヘーキ、一試合投げ続けるってわけじゃないし、たかだか二球や三球」 ふん、と鼻で笑ってやった。確かに、雄輝は速い球も投げられる。それに、変化球も操ることが出来る。それはとても 素晴らしいことだ。これでもう少しメンタル面が強ければ、地区大会ももう少し上まで行けたと思うのになぁ。まぁ、防 御が強くても攻撃が修平以外はからっきしだったからね、うちは。自分? 勿論打率は二割以下さ。 久々のその勢いに、少しだけ手が痺れていた。立ち上がって、球を返す。すぐにまた投げようとした雄輝を、寸でのと ころでなんとか制した。 「頼むよ、俺が手を傷めたらシャレにならんぞ」 「なんだよぉー、もう痺れちゃったの? ……じゃ、いっか」 言うなり、易しめの球を投げてきた。しかも、スライダー。突然変化するものだから、取りこぼしてしまった。誰もいない グラウンドに、球がころころと転がっていく。どこがよかったんだよ? 「雄輝……全然よくねぇぞー」 「ちゃんと取ってよ栄一郎。今のでおしまいー、もう普通に投げるからー」 珍しく空気を読んだ雄輝。こいつも成長したなとか思いながら、返球すると、今度は思い切り上に球を投げ上げた。お いおい、それがお前の普通だってんなら、自分が今まで普通だと思っていたのは一体なんなんだ、雄輝。 「キャッチャーフラ〜イ♪」 「わっ! ……とと」 なんとかしてキャッチする。まるで現役の時みたいな感じだった。懐かしくもあるが、キャッチャーフライなんて取って当 たり前の世界。あまりいい思い出はない。 「こら雄輝、どこが普通なんだよ」 「えへへー、懐かしいでしょ?」 少しも悪びれていない様子。無邪気なその姿を見ると、なんだか全てを許してしまいそうな自分がいる。一応、これは 雄輝なりの気遣いなのだろうか。自分にはただからかっているだけにしか思えないのだが。 その後も、小一時間キャッチボールは続いた。そろそろ昼時で、腹も減ってきた頃合だ。切り上げて帰りにラーメンで も食べようかと誘ったところ、まるで仔犬のようにはしゃぎだした。早く行こうとせっついてくる。 「まぁまぁ、落ち着け雄輝。物事には順序ってもんがあるだろ」 「順序……と申しますと?」 「とりあえず、この野球具、俺のロッカーに入れておいてくれないか? ちょっと寄るとこができた」 「寄るとこ……か。うん、わかった。じゃ、教室で待ってるね。すぐ来るんだよー」 理由も聞かずに、雄輝は自分のミットを受け取ると、一目散に校舎の方へ駆け出した。あいつは、自分のことを信頼 しているから、何も聞かずに……黙って従ってくれるんだ。本当に、いい奴だよ。 そして、雄輝が校舎に入って、辺りに誰もいなくなったことを確認する。辺りには、風の音しかしない。それが、それな りにかいた汗を冷やして、少しだけ体を震え上がらせる。 そっと、人目につかない柱の陰へと身を潜める。 そして、ゆっくりと携帯電話を取り出して、ボタンを正確に押していく。 通話ボタンを押す。何回かコールが鳴って、そして、相手が応答した。 『はい』 「栄一郎です。ターゲット、視認しました。これより現場、押さえます」 『了解した』 通話終了。 その視線の先には、校舎裏へとそそくさと移動する“奴”が、いた。 「…………よし」
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